『東大話法』はブログ本らしい

サブタイが長い  原発危機と「東大話法」―傍観者の論理・欺瞞の言語―
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ブログを本にしたから、原発危機をリアルタイムで書いて、それに関する学者や東電や政治家の欺瞞も書いてたら、こうなったということなのだろう。(前ので、反原発を絡めたのは流行りだったからか?と書いたが元々それをブログで書いていたので逆だった)

原発事故関連のことは、戦前の本音と建て前の世界みたいとは自分も思った。
『東大話法』は、原発批判や放射性物質の危険性を指摘している人たちの怪しさにも触れ、どうしてオカルトに走るのかも、庇って書いているかのようだった。
それだけではないだろう。
怪しげなものを売り歩いてたりする業者も混じってるようだし、宗教(そういえばサイエントロジー http://b.hatena.ne.jp/entry/b.hatena.ne.jp/search/tag?q=%E4%B8%89%E8%BC%AA%E6%9C%89%E5%AD%90&users=1タグ三橋●子 も)関係者も、放射性物質の危険性を煽ったりしていた。

この本で〝東大話法〟と指摘したやり方は、東大だけで行われているわけではないとか、日本に蔓延とかかかれているが、これは昔から言われて来ている〝汚い大人〟のやり方で特に通常なら目新しい事もないのではないか?

ただ、これが、笑えるくらいに、〝注文の多い料理店(宮沢賢治)状態〟というか
天皇陛下万歳!に近いというか
自己の利益にならない寧ろかなりの危険や損害を伴う可能性が高いのに、なぜか唯々諾々と従って、それが大人とか知識あるとか情報強者とか、みたいにしてたりさせられてたり・・・

一種の正常性バイアス?!

煮ガエルは、嘘らしいけど、煮ガエルの比喩に代表されるような、健康のためなら死ぬことも厭わないとか、幸せのためなら不幸にも耐えますとか、お金のためなら幸せも捨てます!とかのような本末転倒した状態で、しかも自分のためではなく誰かや漠とした社会やエライ人のためとか、そんなような倒錯した状況を、

これは、マズイ!!!

と思って書いたということなのだろうか?


倫理的な問題として、〝大人は、汚い〟んじゃなく
実利的な意味でも、困った状況を、生じさせてますヨ!と言いたかったわけなんだろうか?

誰かも書いてた、有名人2人を原発批判批判の欺瞞の例として持ってきても、この2人の適当さかげんは、他の事でもボロが出ているので、わざわざ選び出して批判する必要があったのかという意見もあるし


悪いことを書いてるわけじゃないけど
もっと実利的でもっと何かする形でなければ、気持ちや精神は違っても、効果や働きとしては、残念ながら指摘してる欺瞞を著者が感じてる人たちと、大して変わらないのでは?

啓蒙する意味はあるかもしれないが、既得権益者や権力者に欺瞞は付き物だろう。(だから見張らなくてはいけないのだし、力の均衡を保つように分けられてたりするのだろう。きちんとチェック機能が働いてるとは言いがたいかもしれないが)

なぜ、欺瞞がなかなか無くならないか、と言えば、相手に力があるからだから・・・
原発問題の場合、窮鼠猫を噛む状況だったり、生活のため欺瞞に耐えるどころじゃなく、生活自体できない状況なので、これ以上欺瞞に耐えても仕方ないから、こういう指摘も受け入れられるのかもしれないが
わからないから従っているのではなく、わかっていても従わざるを得ない状況もあるのではないか?
そういうものに対しては、本書は無力だ。

もっと、言えば、心理的アリバイに過ぎないのかもしれない。

今後の行動でも、それは試されるはずだが、そんなことを著者に指摘した人はいるのだろうか?



特に今の時期 選挙に反原発運動の盛り下がりの結果が反映された状況だから、特にそう思うのかなあ・・・・・・・・・